罰則条項 成歩堂の言葉に、響也は椅子を蹴って立ち上がる。 「ああ、荒れてるさ。」 さっきから、憔悴感で胸が焦げてしまいそうだった。どうして、こんな男に対して同情を引く行動をとってしまったのかと悔やんでも、時間は戻らない。おまけに、歌う事も、久しくしていなかったから、こんなにも焦がれていたのかと自分でも情けなくなる。 だからこそ、何もかも、自分の手から零れ落ちてしまったのだと、本当にないのだと。自覚した途端、胸のざわつきを抑える事など出来無かったのだ。 上着のポケットを探り、客と楽団員がくれたお金をテーブルに叩き付ける。 「これで代金は足りるだろう。僕は先に帰らせて貰うよ。」 「ああ、充分だよ。」 目を閉じて成歩堂が頷くのを確認して、響也はそのまま出口へと向かった。 視線の片隅にテーブルに手を伸ばして無造作にお札をポケットに突っ込む成歩堂の姿が映る。 釣り銭を返せなどと言うつもりは、微塵もなかったけれど、成歩堂が本当に支払をしてくれるのかどうかは気になった。 まさか、このまま金だけ持って帰ってしまうのではないだろうか。そうなれば、響也も含めて無銭飲食の窃盗犯になってしまう。 そんな思いが、響也の足を止める。 暫くして、何事もなくそこから出てきた成歩堂は、扉を見つめて突っ立つ響也の姿に、一瞬目を細めた。 「どうしたの?」 「別に…。」 当たり前に、杞憂だった事に気が付けば、成歩堂という男を何だと思っていたのかと自己嫌悪の感情が浮かんだ。 逃げた被疑者の娘を引き取って育て上げた男を、逃げ出す事なく七年も真実を探し続けた男を、蔑む権利など自分にあるはずがない。 だからこそ、自分は失った。 まるで、刑罰が下されたように。 囚われた思考は、そのまま身体の反応も止めてしまった。ただ、目の前の男を見つめる。 店のテーブルで揺れていた橙と比べものにならない冷たい街灯の色が、成歩堂の顔を照らしていた。くっきりと浮かんだ濃影が、輪郭を際だたせれば、寒々とした印象は、いっそう強くなる。 ひょっとして、さぁ。 目の前の男は、嫌らしい含み笑いを持って、響也を見つめた。 何か欲しいの? そう男は告げた。 「僕が欲しいのかな? 響也くん」 唐突で、揶揄を含んだ成歩堂の問い掛けに、身体が勝手に反応する。上下に振られた頭に、成歩堂が僅かに表情を変えた。 渇望している。 それが、成歩堂に対してだと言い切る事は出来なかった。それでも、伸ばされた手を掴んでしまう。縋り付くように、肩口に頭を埋めた。 それでも、面白がっているだろう成歩堂の、表情を直視する気にはなれなくて、地面を眺める。己の影が成歩堂の影に重なり、黒々とした固まりに変わっているのが薄気味悪い。 パーカーを握っていた指先に力が籠もる。微かに指先が震えたのは、気のせいだ。 「じゃあ、ホテル行こうか?」 支払いは君でいいよね? そう念を押されて、もう一度頷く。 僕とするのは、いいんだ。…ただ、そう思った。 「僕は、男、なんか知らないよ。」 ベッドに仰向けになったまま、響也はそう答えた。 成歩堂が返事に詰まったのが見えて、少しだけ溜飲が下がった気がする。 そうして、成歩堂が被っていた帽子を片手で外し、ベッドの横のテーブルに投げ置くのを目で追う。 ふうと、溜息をつくのが聞こえた。 「後悔するよ?」 「そうかもね。」 他人事のように呟いて、ぱたりと両手をシーツに落とす。 「…だから、指示してくれないと何をしていいのか、わかんないよ。」 やれやれ、完全な呆れた表情になった男は、それでも『止めようか』と告げる事はない。 何解にそんな事を聞いてくるのだから、何らかの経験はあるのだろう。それが年齢からくるものなのか、そういう性質の男だったのか響也には知る術もない。 「まぁ、いいか。君が女性を抱くときにどうするか、でいいよ。服は…」 「自分で脱ぐ。」 起きあがり、ペンダントを外しかけて、ふと気付いた。 「シャワーは、いいの?」 自分が女性とベッドを共にするのなら、大概の女の子は、シャワーを浴びたいと言ってくる。 「別にいいよ、気にならない。」 既視感。何処かで聞いた台詞だと思い、さっきの店で成歩堂が口にした言葉と気がついた。 気にならない。 確かに自分は、その程度の人間のはずだ。 僅かに残っていたらしい、羞恥心はその時点で消えた。躊躇う事もなく服を脱ぎ去れば、ただ、成歩堂の視線だけを纏う事になる。 今まで、全く揺るがないように見えた成歩堂の瞳が、 痛ましいものを見るように揺れ、そして反らされた。 優しい男なのかもしれない。 そう感じた響也の思いを裏切る事なく、触れてくる手は、乱暴なものでは無かった。 何処に触れる時も、必ず「いいかい」と問われる。 余裕があるうちは、それでも素直に返事をしていたが、流石に途中からは、意思を持って言葉を返すことすら辛くなる。 拒絶の言葉など口にしないから、意識を手繰りよせる行為を求めないで欲しい。心と身体がバラバラになりそうなセックスが、今の自分には相応しい。 気持ちいいだけの行為など今は必要なくて、暴力の方が欲する心情に近いものだったのかもしれない。 苦痛と快楽の間に張られ、研ぎ澄まされた糸がぷっつりと途切れるまで、響也は砂に染み込む水の様に成歩堂を受け入れていた。 ふっと目が開く。柔らかな光に照らされた部屋は見覚えの無い場所だ。夢現の響也は、寝返りを打とうとして、奇妙に痛む身体に身じろぐ。思わず呻いて、くの字に曲げた頭が何かに当たる。 狭いベッドの向いには、馴染みのない貌が眠っている。 「え?……ぇえっ?」 それが、成歩堂龍一だと認識した瞬間頭の中はパニックを起こし、慌てて記憶を呼び覚ます作業を開始する。焦りのあまり、硬直したまま、でも何となくつい、の寝顔をじぃっと見てしまった。 起き抜けの頭でパニックを起こしたものだから、うまく考えがまとまらずに、胸の動悸だけが高まってしまう。 …昨日は、飲みに出て、それで… その先を思い出した途端、顔は瞬時に赤くなり先行きを思い出す度、青くも変わる。一部記憶があやしいのが、少しばかり怖い…。 そんな響也の内心を全く解さない成歩堂は、すうすうと規則的な寝息を立てていて。安らかな…と形容しても問題がなさそうな表情は、響也の記憶の中にあるどんな彼とも違い、困まる。 こんな表情をする男だったのだと改めて思う。 無防備で、柔らかで何処か幼さも感じる顔。こうして見れば、それなりに整った部類の顔立ちに違いない。 甘い吐息。低い囁き。 そんなものも、感触を伴って、リアルに甦ってくる中で、響也はそっと顔を近づけた。 それこそ、鼻先や口唇が触れそうな距離まで近付いた時、目の前の男は何の前触れもなく目を開けた。 「ん?」 起きあがろうと身体を揺らした成歩堂と響也の唇が重なる。響也は素っ頓狂な声を上げて、飛び退いた。 「あ、れ…?」 成歩堂が、目をぱちぱちさせながら、自分の唇に指先で触れた。そして、視線を響也に移す。 何したの? そんな目付きで見つめられ、激しい鼓動と、不意に上昇してくる血圧とに、顔が沸騰していくのがわかる。 「響也く…「貴様のせいだぞ、成歩堂!」」 言い終わる前に、響也は両腕で成歩堂の身体を突っぱねる。 寝起きで無防備だった成歩堂は、そのまま床へと撃沈した。酷く鈍い衝撃音が響いたけれど、冷静に対処するすべなど、もう響也にはない。 散らばっている服に袖を通して、逃げるように部屋を出た。景色が霞んで見えるのは、目に涙が浮かんでいるからだ。唇を何度も袖で擦り上げた。 「襲われたのは、僕の方だと思うんだけどね」 床に寝転び、ズキズキと疼く後頭部を抑えながら呟いた成歩堂の言葉は、響也の耳には届かなかった。 content/ next |